佐藤さんの残したもの

それはそれはながいながい夜でした。


2009年5月13日に亡くなった佐藤さん。
14日にお通夜があり、佐藤さんととても親しかった自分は、親族から勧められて、お通夜の夜、朝まで…正確には告別式が始まるまで佐藤さんと最後のお別れをすることができました。

深夜になっても、空が少しずつ赤くなってきても、まぶしすぎる太陽が昇ってきても、小学生の登校風景が葬儀会場の大きな窓から見える時間になっても、話が尽きないのは佐藤さんの思い出話。
佐藤さんの奥さんと3人の子ども達、佐藤さんの兄弟、そして眠っている佐藤さん。

…もう佐藤さんと過ごせる夜はこれで最後だもんね。


小さい頃のことを聞かせてくれた、佐藤さんの兄弟。
戦後すぐに生まれ、リアカーをひいて苦労した子ども時代。
信じられないくらい小さい家に兄弟ひしめき合って過ごしたころ。


お父さんはね…と話を聞かせてくれた奥さん。
新卒で開発局に勤め、設計を担当。
建物の設計の面白さに目覚め、以来設計の道を歩むことに。

いちばん面白いのは、なんといっても人の住む家。
自分はその家族にあわせたひとつひとつの家、いつか一戸建ての設計をしたい。そんな夢をもって邁進した20代30代。

独立して設計の仕事をしたこともあったけれど、それはやっぱり設計だけの仕事で、そうではなく建て主と語り合う部分もやりたい…家造りの最初から最後まで取り組みたい…それには施工管理、つまり工務店をやってみたい…
そう考えて、建築会社に入り直してがむしゃらに働いた時代。

そして信じ続けて夢を持ち続けて、20年かけて、17年前ようやく実現した夢。
それが工務店として独立すること。
それこそがまさに経営していた「ホームテクト佐藤」そのもの。


人生にとって家とはこうあるべきだ、という「家族の家」への熱い想い、哲学。
地産地消への半端ないこだわり。地元材であるカラマツへの愛着。

技術的な問題がひとつひとつ解決していき、カラマツでようやく家を建てられる目処がつき、そして建てた実験的な住宅…それがまさに我が家「四つ葉屋根の家」。

十勝の工務店では異色の存在であり、カラマツ住宅の先駆者であり、このところはようやく会社の業績も順調になっていき、やっと佐藤さんが夢見ていたものが形になってきた。

その矢先の病気…。


次男夫婦とは、次男夫婦と我ら夫婦、それに佐藤さんと一緒に家を建てたとき、それからみんなで一緒に旅行に行ったときのエピソードの数々。


本州に行ったとき。
フェリーは朝6時半出航、ホテルのロビーに6時集合って言ったのにオヤジ起きちゃいねー!
そして乗り場に行くと、なんとフェリーなんて影も形もない!あれー?オレ勘違いしてたかなー?と言う佐藤さんに唖然として大笑いしたこと。


フクロウが大好きだったこと。
輓馬が好きで、テレビのインタビューをうけて大喜びしていた顔。

沖縄が好きだったこと。お酒が大好きだったこと。
30年前に禁煙に成功して、それがいつも自慢で、タバコはやめとけよー、といつも言っていたこと。
うちの家の完成記念パーティでの嬉しそうな顔。

動物が好きだったこと。
15年30万キロ愛着を持って乗っていたボロボロのダットサン。
嫁さんが「おとうさん」って呼んでくれたときのうれしそうな様子。


意外と表現下手なところもあった。
次男夫婦に築地の寿司屋に連れて行ってもらって、そんなに喜んでいるふうでは無かったなー、と次男夫婦は言っていたけど、本当はものすごく喜んでいて、その寿司がどれだけおいしかったか、それはそれは楽しそうに嬉しそうに我ら夫婦に言っていたときの顔…


神もほとけも信じないからさー!オレ死んだら、ただのモノだから!…なんて死生観も言っていたよなー。

こうして葬儀の場で佐藤さんの横でみんなで話をしているところを見たら、なんて言うかな…こんなバカなことして!お経の意味なんかわからんよ!ってやっぱり笑っているんだろうなー


おいしい焼き肉屋あるんだけど、今から一緒に行かない?って誘われて愛車のオデッセイに乗せてもらったら、それは北見だったこと。


仕事に打ち込む姿とは裏腹に、少年のような無邪気なこころも持っていて、食玩の飛行機をコレクションしていたり。
そば打ちにはまっていた時期もあり、いつもそばをごちそうになっていた。

古いものが好きで、一緒にクラシックカーのお祭りに行ったり。
家の中は古い壁時計でいっぱい。

変なモノが大好きで、ランダムに動いて掃除してくれる妙な機械を買ってきて「これ使いなー」とかくれたり…

それでいて意外と飽きっぽいところがあり、そのときどきで夢中になっているものが違ったり。


佐藤さんは正直なものが大好きで。
自然や緑が好きで。リビングはジャングルみたいだった。
清水町の旭山に掘っ立て小屋を建てて、そこで自給自足しながら老後を送る…そんな夢を語っていたこともあった。

そういえばオレ死んだらカラマツの棺桶に入るんだー、なんて言ってたなー。
残念ながら実現はできなかったけれど…。


火葬場で次男が、
「そういえばじいちゃんの葬式のとき、オヤジここで喪服の上着を振り回していて、なにしているのかと思ったら、クワガタつかまえていたんだ…自分の父親の葬式で喪主なのに…」なんて笑っていたけど、本当にそういう感じの人だった。


自分たち夫婦もまた、佐藤さんとは本当に親しくしてもらっていて。
用もないのに頻繁に家に出入りして、本当に実家みたい。

このブログも楽しみにしてくれていて、「さとちゃん」と書かれたこのブログのとぼけたいくつかのコメント。
オーナーズクラブを設立したり、ウェブサイトを作ったり。

豊似湖という人知れぬ山奥の湖を一緒に歩いてみたり、一緒に旅行に行った事もなんどもあるし、一緒に食事した回数なんか数え切れない。

根っこの部分に流れる、人へのやさしさ。
家が好き、家づくりが大好きな気持ち。郷土への愛情。


家族、なかでももうすぐ成人式を迎える娘ちゃんのことを誰よりも大事にしていて、いつも気にかけていて、高校決まったよー、とか、旭川での様子をよく話してくれた。


我らに子どもができたときはとっても喜んでくれて。
子どもが大好きで、いつも子ども達と遊んでくれた。自称、ハルトのじいちゃん。

でも「やめて」と言っているのに、いつも赤ちゃんのハルトに六花亭のお菓子をあげていたなー。ハルトが生まれて初めてケーキを口にしたのも佐藤さんちでだったなー。


ハルトの言葉が遅いのをずっと気にかけてくれていて。
ハルトに「さとちゃん」って呼ばれるのがすごく嬉しくて。
もちろんハルトもさとちゃんのことがとても大好きで、今日はさとちゃんち行かないの?なんてよく言っていた…。

住宅公開のときにハルトにチョコレートをあげていて、チョコでベタベタの手で新築の家を触ったら困るから妻が「クルマで食べなさい」と注意していたら
「おまえのかーちゃんうるせーなー」なんて笑っていた事もあった。


お互い頻繁に電話していて、うちの電話の通話の大半は佐藤さんとの受発信だった。
「いまさー、道路ですれ違ったっしょ?どこいくの?」
なんて電話が何度かかってきたことか…。


私たち夫婦のこともものすごく可愛がってくれて、間違った事をしようとすると「それは違うんじゃない?」と叱ってくれたり。

佐藤さんを通して知り合いになった、たくさんの人たち。

人として大切なものをたくさん持っていた佐藤さん。

私たち家族は佐藤さんのことが本当に大好きでした。
誰よりも頼りにしていました。
佐藤さんが残していったものは大きくて、そして力強い。

価値観がすごく似ていて、不思議にわかりあえる部分が多くて、佐藤さんは「十勝の親代わり」っていつも言ってくれていて。
それは本当なんだけど、でも今思えば、それ以上に大切な友人だったんだな…


いつまで経っても思い出は尽きる事がなく、線香をあげながら、佐藤さんと過ごしたながいながい夜も終わり…


尽きない佐藤さんのエピソードを語り合ってみんなでいっぱい笑って、そして人間はこんなに泣けるのか!?と思うほどずっとずっと泣きました。
佐藤さんと最後のお別れができて本当に良かった。


…とはいえ、こんなふうにいろいろ書いても、ひんやりした顔の感触を思い出しても、火葬場の煙突を思い出しても、それでもまだやっぱりなんか夢を見ているみたい。

アスパラ食べる?いまから行ってもいいか?っていますぐにでもまた携帯がなる気がする。
葬式の準備のときも「ねえ、今日葬式なんだけどお金いくらつつめばいいんだっけ?」って電話しそうになっちゃった。



携帯電話の着信履歴、佐藤さんと最後に話したのは4月28日の昼前。

…オレ抗ガン剤で足弱っちゃてさー、ハルトの木馬、あれでリハビリしたらどうかなー?
えー?あんなのサトーさんには小さすぎますからーアハハ
そうかなあ?いいと思うんだけどなー

…今思えば、佐藤さんはハルトと夏樹に会いたかったのかもしれないなー。

病室も知っていたのに、抗ガン剤の影響で抵抗力が極端に落ちているから、子どもを合わせるのは良くない…という判断をしていて、あえて会いにいかなくて。ごめんなさい。

ガンはやっつけたから退院したら一緒に鎌倉に行こうぜ、なんて話もしていたし、まだまだこれからやることを計画していた佐藤さん。
本当にどこまでも前向きな人でした。



最後に佐藤さん。
私たち家族に、人生のステージを作ってくれた佐藤さん。

もう電話はかかってこないけれど、これからも私たち家族のことをどこかで笑いながら見守っていてください。

私たち家族はあなたと一緒に時間を過ごせて、家づくりを一緒にできて、子どもの成長を一緒に見守ってもらえて、そしてあなたと友達になれて、とても幸せでした。本当に幸せでした。

どうもありがとう。